“アラモスに住む日本人“
(1999年後半)
メキシコの中部、位置的にはバハカリフォルニアの南の突端から内海を東に越えて少し内陸に入ったあたりにサンブラス、エルフエルテ、エルカリッツオという小さな村が点在しており、その小さな村々にボランティアによって作られた診療所があります。そこに毎月第一金曜(10月から翌月の6月までが1シーズンです。)に出発し金曜の夕方と土曜丸一日治療にあたっているのが、様々な専門の医師、薬学士、看護婦、パイロット、通訳、医学生等で成り立っているLIGAというボランティア団体です。このLIGAは、もともとはあるアメリカ人医師が自分自身でセスナを操縦し、メキシカンインディアンを治療した事から始まった医療ボランティアで、別名Flying doctor of mercyとも呼ばれています。始めにこのメキシコボランティアの話を聞いたのは、薬学士であり、針灸師でもあるドクターからでした。この人物は日系2世、自身が戦後キャンプ生活を強いられた経験をもっており、なんとこのボランティアを30年続けているのです。私自身もセスナの飛行訓練を30時間ほどした経験があることから、セスナでメキシコに行くという事が魅力的で参加させてもらうことに決めました。後でわかった事ですが、今ではこのドクターのみがその当時のままのやり方を守り、当時のコースをたどり土地の人々と触れ合いながらボランティアを続けているのです。このドクターと行動を共にしている事で、たくさんの楽しい??出来事や素晴らしい人々との出会いがあり、痛みで困っている人々の力になれるということに加えて、今ではそれがメキシコボランティア旅行の大きな魅力になっています。1998年の3月より初めたボランティア、今回は金曜に宿を取ることが多いアラモスという小さい村での出来事、1999年後半の話です。
登場人物 1.パイロットはもちろんドクターK
2.ボブ
3.ダーティーダン
4.メキシコ中級者の私
アラモスというのは、実は我々LIGAメキシコボランティア発祥の地なのです。以前はここに診療所があったようですが、LIGA医師団と現地の医師との間の確執によりある問題が起こり、診療所は残念なことに閉鎖されてしまったようです。今ではドクターKのみが金曜の夜に立ち寄るだけで、ほとんどのメンバーはそれぞれの診療所がある村へ直行しています。我々もいつも必ず毎回アラモスまでたどり着けるとは限らないのですが、日が沈むまでに着陸可能な限りアラモスで金曜の夜を過ごすことにしています。診療をする前の神聖な夜はアラモスで過ごす。というドクターKの「信念」か、「暗黙の決め事」みたいなものがあるような感じすらします。前述したように毎回アラモスにたどり着くのは日没とほぼ同時か直後になるのですが、この日もオブレゴンからアラモスへ向かっている頃には日没もいよいよ近くなってきていました。きれいな夕日の中を飛行中にドクターKがひと言「あの山の斜面に緑色が一段と濃く木が密集しているのがわかるかい?」私が、「ああ・・あそこね。」と答えると。Dr. Kが、「ああいう風に不自然に木々が密集している場所は、その下でマリワナを栽培してて、あそこら辺の山道にはいたるところにブービートラップが仕掛けてあるんだ。」「空からマリワナの葉っぱが見えないようにああやってほかの木々を密集させて隠すんだよ。」と続けます。「はー・・・」と私。どうも平和ボケをしている日本育ちの私には今ひとつ実感がわいてきませんでしたが、後で本当にマリワナ輸送に軽飛行機が使われている状況を目の当たりにすることになります。その話は又後で紹介することにしましょう。
・・そうこうしているうちにアラモスの飛行場が見えてきます。上空から見るアラモスは本当に小さな村です。その中心には歴史的な建造物のカセドラルが白く際立って立っています。滑走路にアプローチする前に毎回風向きの参考になるものを探します。たいがい誰かが焚き火をしていたりしてどこからともなく煙が立っているので、それで風向きがわかります。向かい風になる方向から着陸態勢をとるのですが、なぜか毎回同じ方向から風が吹くようで、いまだに反対方向からアプローチをしたことがありません。着陸するといつものようにエアーポートの管理官であるダニエル、その奥さんと4人の子供、そして2匹の犬が家から出てきます。彼らは滑走路脇にある家に住んでいてこのエアーポートを管理しています。
当時はこのエアーポートはひっそりとしていたのですが、徐々にアメリカ人がアラモスにホテルを建て始め、滑走路を舗装し大きなジェット機の格納庫を作り、飛行場をぐるりとフェンスで囲ってしまいました。子供たちがエアーポートに入って来ることはなくなり、りんごと鉛筆配りはいよいよできなくなってしまいました。
さて少しずつ英語がわかるようになってきたダニエルと本当に片言の私のスパニッシュで、簡単に挨拶をしているといつものようにどこからともなくタクシーが現れます。タクシーに乗り込み泊まり慣れたいつものモーテルに部屋を取り、またいつものようにエルサおばさんのレストランに行くと、なんと!隣のテーブルに若いアジア人女性がメキシコ人の家族に混ざって食事をしています。興味を引かれたドクターKがその女性にスパニッシュで話しかけると、なんとなんと!彼女ははるばる日本の大学から農業を教えにこの小さなアラモスという村でホームステイをしている学生なのでした。ドクターKと私とその彼女と3人でしばらく話をしたのですが、ドクターKと私は英語、私と彼女は日本語、彼女とドクター Kはスパニッシュと3人の日本人が3ヶ国語で、なんとも不思議な会話をしているのでした。私自身も驚きましたがドクターKいわく、日本から来た日本人がアラモスに来たという話も聞いた事はないし、ましてはばったり出会ったりなんてことは25年間で初めてだ!とかなり興奮していました。この女性はそれから半年間くらいアラモスに滞在していたようです。何度となくドクターKが日本語の雑誌などをLAから持っていってあげたりして彼女が大変喜んでいたのを覚えています。
“プエルトペニャスコのフィッシュタコ”
以前にメキシコまでいけなかった回を紹介しましたが、エンジントラブルで金曜日に出発できなかったことがほかにも何度もあります。そんなことが起こった2000年のある金曜に、ドクターKの提案で飛行機の修理が終わるだろう次の日の土曜日に日帰りでプエルトペニャスコへ“フィッシュタコ”を食べに行こうということになりました。覚えていますか、この飛行場はいつもドクターKが自動車用のハイオクガソリンを飛行機に給油する小さな飛行場です。プエルトペニャスコは、内海(See of Cortez)の北側のはずれにあってアリゾナとメキシコの国境からは60マイルほど南に位置している小さな港町です。当時はまだ観光化がそれほど進んでない状態で、真っ白い砂浜に青い海が、内海の浜辺とは思えないほどきれいな状態でした。ただしこの内海、恐ろしいことに毎年必ず遭難者が出るということ!!なんと遭難者(中には自殺者もいるようですが)はみな忽然とボートごと消えてしまい、その死体は見つかったためしがないということです!? 空から見るとそんなことが起こるようには到底見えず、たださざ波がわずかに立っている静かな海なのですが・・・・実はかなり塩のうねりが多いようです。不思議なことが起こるものですねえ。
さていつものように上空から飛行場の管理官(Comodante)であるAlonzo(アロンゾ)に無線連絡をしてみると、相変わらず人懐っこい声で「カト~!!」、ドクターKの、「今日は港でフィッシュたこを食べるから車が必要なんだが・・・・」という要請にいつものように「僕の車使っていいよ。」と、快く車を貸してくれるのです。彼は数年後に肌が真っ白で、とてもきれいな女性と結婚するのですが、私に勝るとも劣らない(?)好男児です。さて着陸後車を借りて港までは10分ほどのドライブです。小さな漁港らしく小型のイカ釣り漁船らしい船がたくさんつないであるところを過ぎると、浜辺付近では、大きなホテルの建設が進んでいます。その建物に覆いかぶされるように掘っ立て小屋のようなフィッシュタコ屋が見えてきました。入り口には大きな水槽があり、その中に今朝獲れた(らしい?)という大小さまざまな得体の知れない魚が泳いでいます。ドクターKが、「今日は4人だからそいつで頼むよ。」と指をさすと、ザバッとその魚をつかみ取り、内臓を取り出したかと思うと丸のまま油の入った大~きな油釜で、ジュワ~っと丸揚げします。揚がった魚を大きな皿に無造作に「どさっ」と乗せ、周りにライムをちりばめます。みんなでフォークを使いこそげ取った身をトルティアに乗せ、ライムと辛いソースをたらしてかぶりつくのです。ハエとの格闘をしながらも新鮮で以外にもおいしい魚と、ライムとチリソースでもっていくら食べても食べたりない感じです。私は飛行機を操縦する予定はありませんでしたので、ドクターKには申し訳なかったですが、当然ビールもおいしくいただきました。ちなみにボヘミアビールがないということで、ネグロモデロを試しに飲みましたが、少し黒味がかって風味があり、やっぱりメキシコ料理にはメキシカンビールが合うんだと再確認しました。
おいしい昼ごはんの後は、海沿いのフィッシュマーケットに立ち寄り、少し物色をしました。すると、魚屋のおじさんが「カトー!!」・・・。やっぱり!!ここでもドクターKを知らない人間はいないのでしょうね~。さてそのおやじさんは今獲れたばかりという「えび」を売っています。始めは「メキシコで獲れたえび??」とちょっと引いていた私も、見てみると身がしまっていて大きな尻尾の部分が実に美味そうです。飛行機の積載量の関係であまりたくさんは持って帰れないという事でしたが、5LB(2.3Kg)ほどお土産に買って帰ることにしました。それにしてもえび売りの親父さんの目分量の正確さには本当にびっくりです。「5LB頂戴」と頼むと、「グワシッ!」とばかりに手づかみでビニール袋にえびを入れ、最後に一匹二匹の微調整の後にはかりに載せると、ぴったり5LB。「おお~っっ!!」私と同乗したダンは10LB購入、親父さんはやはり手づかみで一発でぴったり10LB。「すばらしい~!!」なのに!10LBたのんだドクターKの分をはかりに載せると・・・あれ??11LBです!!親父さんはドクターKのほうを見て「にやっ」っと笑ったと思うと、何も言わずにそのまま袋をとじました。ん~~!ドクターK!恐るべし!!持って帰ったえびはすぐに冷凍にし、エビフライやてんぷら、塩焼きにバターソテーと、ぷりぷりとして大きな身をあらゆる料理法で堪能しました。後で人から聞いた話では、アメリカで売られている多くのえびはメキシコ産だそうで、こんなにおいしいんだったらもっと買って帰るんだったと後悔したのを覚えています。
“アラモスの変化”
1998年から始めたボランティア、2003年までの間にわが心のふるさとアラモスは随分と変わりました。はじめてこの地に降り立ったときには、飛行場にて感動に震える手で子供たちにりんごと鉛筆を配りました。徐々に町の中心に大きなホテルが出来上がり、1999年に入るとエアーポートは舗装され、ある時期大きな格納庫が忽然と現われ、あっという間に飛行場はぐるりをフェンスで囲まれてしまいました。アメリカ人がこの町に立てたホテルは、なんと一泊400ドルだそうです。私たちが泊まるモーテルは1泊20ドル。新しく出来たホテルで働くメキシコ人がもらえるチップは、もしかすると1日で1月分の生活費をまかなえる額かもしれません。以前1度、街の駄菓子屋で現地の女性に月々の一家の収入はどれくらいか聞いたことがあります。確か200ドルから300ドルと言っていたと思います。そんな町に1泊400ドルのホテルが忽然と姿を現し、裕福なアメリカ人がジェット機で週末を過ごしに来るようになっているのです。おかげで毎回エアーポートからモーテルに行くタクシー代も高くなり、見る見るうちにいろいろな物価が上がり、この小さな町の生活のバランスが良くも悪くも大きく変わりつつあるようです。
“アラモスに日本人観光客?? ”
アラモスでのある金曜の夜の出来事です。徐々にアラモスを訪れる観光客の数が増えてきていましたが、日本からの観光客はさすがにまだほとんどいなかったようです。ところがある時ばったり会ったのです!しかも日本からたった1人で来た日本人の観光客が。
アラモスのいつものモーテルに部屋を取ると、なにやらモーテルの主人とDr. Kが話をしています。何事かと尋ねると、モーテルの主人によると、なんと日本から来た「ハポネス(日本人)」の女性が1人別のモーテルに部屋を取っているという事でした。さすがに小さな村で、しかもめったに来ない日本人のしかも女性の1人旅となると村中の評判になるようです。さっそくDr. Kを先頭に会いに行きました。新潟からメキシコに1人旅に来ているそうです。「何で又アラモス??」という質問にはとにかく日本人が誰も来ないようなところに旅行をしたかったということですが、我々がアラモスに泊まる時期に偶然とはいえ驚きでした。やはりアラモスには人をひきつける何かがあるようです。
“落ちた!・・・”
登場人物 1.パイロットはもちろんドクターK
2.日系3世のパイロット、バート
3.ダーティーダン
4.私
今回はパイロットのバートが同乗しているので、私とダーティーダンは操縦桿を握るチャンスがありませんので、二人共終始飛行機の後部座席に座っていました。いつものようにサンブラスクリニックでの診療が終わり、ワイマスへ向かう飛行中での出来事です。
いつもよりも雲が多く飛行機もゆれ気味でした。雲の直下が一番ゆれが少ないらしくDr.Kが高度を調節しながら出来るだけゆれが少ない高度を飛行していました。なんとなく湿気と暗さと揺れに嫌な感じを覚えていた気持ちをさらに逆なでするように突然雨が振り出したかと思うと急に真っ暗になり、飛行機の揺れが一段と大きくなりました。突然バートが、「あっ!!!」と叫ぶと、その直後に「がんっ!!!」という大きな音とともに私はしこたま頭を天井に打ちつけ一瞬何がなんだかわからなくなりました。次に「ゴーッ!!」という大きな音が聞こえ、飛行機の両側のドアが半開きになっています。私とダンがそれぞれの座席に近い側のドアを内側に強く引っ張りまずはドアを閉めました。Dr.Kが「ウインドシェアーだ!!(風と風がぶつかってできるエアーポケットのようなもの)。」続いてバートが「500フィート(150メートル)落ちたぞ!!」と続きます。なんと一瞬にして150メートル近くも落下したようです。私のしていたシートベルトはほとんど役に立たず、といっても後部座席に座ると頭と飛行機の天井の間は10cmしかありません。わたしもダンもしこたま頭を打ちつけて、特にお尻が厚い(座高が高いとも言いますが・・)私は、どうやら首をやってしまったようです。ドアは閉めたもののまだ風の音がするのに気がつき後ろを見ると、後部の窓が割れてしまっています。それはおそらく後部座席の後ろに積んである荷物の中の何か硬いものが当たったためだと思い、見渡してみるとDr.Kが針の用具一式をしまって持ち運んでいる愛用の古い圧力鍋が犯人だったようです。
運良く飛行機のダメージもそれほどでは?ない様で、皆が落ち着きを取り戻した頃に、ダーティーダンが「でかいウインドシェアーだったね!!」というと、Dr.Kが「たいしたことないよ、Minerさ、ほんのちょっとのポケットに入っただけだよ。」と涼しげに言います。バートが、「飛行機が落下する直前に、大きな鳥が吸い込まれるように急降下したのを見た。」らしいのです。それでびっくりして「あっ・・・」と声を出したという説明。それと全く同じ事ががわれわれにも起こったというわけです。無事にワイマスに着陸後、ダクトテープで割れた後部窓の応急処置を済ませたのですが、徐々に首が硬くなって来ている私はその夜Dr.Kに針を打ってもらうことになるのでした。
“ドアが開いてた!!”
登場人物 1.パイロットはもちろんドクターK
2.イタリアーノと言うと、違う!シシリアーノ(シシリー人)だ!と怒るイタリア人外科医
3.私
4.ある日本人記者
今回は、このメキシコボランティアの記事を書くために同行したいというある日本人記者を連れての旅行になりました。今回一緒のシシリアーノの外科医は、年齢がDr.Kよりもさらに上、確か70歳を越えていました。シシリー島出身のリタイアした「口、のど及び顔面専門」の外科医です。
ロングビーチエアーポートでお互い紹介が終わり、飛行機に乗り込み隣を見ると、記者さんがなんだか不安そうにしています。どうやら小さい飛行機は苦手らしくかなり緊張している様子。「思ったよりゆれませんし、パイロットは経験豊富ですから心配しないで大丈夫ですよ。1~2時間に1回は着陸するので、トイレのほうも大丈夫ですから。」と説明をしている間に、飛行機はタクシーウエイを進みランウェイにて離陸の準備が出来たようです。「準備はいいかい?」というDr.Kに皆の、「OK!」という合図で、徐々にスピードを上げ飛行機が離陸しました。
少しするといつもよりなんだか機内に風が多く入ってきている「音」に気づきました。すると直後にDr.Kが、機内のマイクを通して小さい声で、「閉めてくれ・・・」と言います。やっぱり!!記者さんが座っている側の窓がきちんと閉まっていないで、半ドアのまま離陸してしまったようです。「ちょっと失礼します!」といって、記者さんの身体の向こうにあるドアノブを「ガシッ」とつかみ手前に何度となく引っ張りドアを閉めました。すると記者さんが、「え・・なに~・・??あいてたの~?!」私が、「そのようですねぇ・・」と言うと、持っていた小さなバッグからあわててピルケースを取り出し白い錠剤を口に入れたと思ったらそれから目的地に着くまではずーっと眠っていました。睡眠薬の錠剤だったようです。
いつもの様にカレクシコ、プエルトペニャスコそしてワイマスへと向かい、最終的にアラモスに金曜の宿を取り、エルサおばさんのレストランで夕食を済ませましたが、次の朝にある情報が入りました。
なんと“サンブラス飛行場閉鎖”だそうです。前に一度アラモスへの着陸前に山の斜面でマリワナ栽培をしているらしい場所があったと紹介しました。メキシコでは計器飛行のライセンスがあっても軽飛行機は日没後は飛べません。それはマリワナを輸送することを予防するためとも言われています。ところが実際にサンブラス飛行場を使ってマリワナ輸送がされていたようで、なんと軍がマリワナ輸送予防のために、滑走路のど真ん中に「ブルドーザーで大きな穴」を開けてしまったそうです。というわけで、サンブラス飛行場には着陸不可能だという情報が入り、最寄の飛行場から車でサンブラス入りをしなけらばならなくなりました。というわけで、当日は私がこのボランティアを始めたころに治療をしたエルフエルテという飛行場に着陸をし、そこからまたボランティアの運転する車でサンブラスまで約一時間半かけてドライブとなりました。
タクシーではなかったのですが、やっぱり窓ガラスにはひびが入っていました。
“ガス欠”
これは私が都合で参加できなかった時の話です。メンバーは、Dr. K、日系パイロットのバートとダーティーダン(この二人は仲のいいバディーです)だったそうです。その事件は帰りの行程で起こりました。いつもだと帰りのガソリン補給は、まずはワイマスか、オブレゴン、そしてプエルトペニャスコでガソリンスタンドからハイオクを入れ、そして国境を越えてカレクシコと3箇所で行います。この時は、風向きもよかったせいか、それともDr. Kの勘違いかで、プエルトペニャスコでの給油着陸をしないで、直接オブレゴンからカレクシコまでの飛行を試みたそうです。ところが、国境まで後もう少しというところで、なんとガス欠になってしまったそうです。
緊急不時着をするにあたって、周りは田畑だったらしく、着陸できそうなあぜ道にターゲットを絞り、そこは経験豊富なDr. Kですから不時着には成功したそうですが、あぜ道の終わりからあと1mほどのぎりぎりで止まったきわどい着陸だったそうです。その後、不時着前に無線連絡した管制塔に助けを呼ぶようにとたのんであるはずなのに・・やはりいつものように何の音沙汰もなく挙句に5時30分には飛行場が閉まってしまい、それ以降は連絡も取れずほったらかし、暗くて寒~い夜を飛行機の中で過ごすはめになったんだそうです。
明け方になるとマリワナ輸送機と勘違いされ、十数人の兵隊にM16ライフルの標準を合わされ、Dr. Kがあわてて説明をしたんだそうです。その後、彼らにチップを渡し、ガソリンを調達してもらい、あぜ道ぎりぎりで止まった飛行機を反対側に向きを変え、無事に??帰路に着いたそうです。
いかなくってよかった!!
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